放浪息子に寄せて~ハジメニ~
基本的な事として放浪息子の詳細な作品紹介はしない。知っている事が前提として話をしていく非常に読み難いスタイルで有ると思う。ご容赦願いたい。
元々アニメや漫画が好きで、熱狂的では無いにしろ今でも漫画やアニメを見る方だ。何かアニメが見たいと思った時にノイタミナ枠が良さそうかなと思ってたまたま放浪息子を視聴した。
所謂創作(ドラマ等実際に三次元の人間が演じるもの含む)に出て来るトランスジェンダーは振り切った人間が多い。
困難や悩みはつきものだが結果的に最後までトランスジェンダーで有り、性自認に関する揺らぎがあまり無い様に見受けられる。
その点放浪息子の登場人物達は揺らいだり変わったり、と、そこに自分を重ねたのだと思う。
いや、正確には二鳥修一はあっち側の人だ。で、あっち側こっち側と言うのは要するに自分の立ってる位置からの見解なのだが高槻よしのはこっち側だった。
そして物語足りえるのは二鳥修一みたいな人間だ。高槻よしのだけでは物語にならない。でもきっと現実にはそう言う人間も沢山居るだろう。
そして自分もそうだ、そうだった。
最終的にやはり自分はトランスジェンダーだった、セクシャルマイノリティだった人間達から見たら自分達はニセモノなのだろう。なんちゃってなのだろう。
いつの間にか男になりたいと思わなくなっていた高槻よしのが二鳥修一に抱いた罪悪感は分かる気がする、最後までそうであった人間とそうでは無かった人間とではまた、違うのだと思う。
こちらも分かってあげられないし、きっと向こうもこちらを分からないと思う。
あと放浪息子の目新しい点は二鳥修一があっち側と前述したのだが、結局性自認が女の子なのかも怪しい上、性指向の対象が女性で有ると言う所だ。馴染みの無い人間には分からないだろうけれども性自認が女の場合ノーマルな性指向は男なのだ。
トランスジェンダーの中のノーマル性指向はマコちゃんだと言える。(マコちゃんはゲイでは無い)
二鳥修一が性自認が女性であった場合、性指向はレズ、と言う話になるのだ。(それは物語でも書かれている)
二重のセクシャルマイノリティなのだ。
これは生き辛いね、と思う
それと同時に物語の中の人物ではあるが、体の性に照らした異性が好きなのに自分の性自認が果たして体とは逆のものなのかって言う判断にも酷く困るのでは無いかと思う
自分は少なくとも思ったのだ、「男性が好きならば自分の心が男だと思うのは果たして本当なのだろうか、ただの憧れでは無いのだろうか?」と
狭間が良く描かれているなと思う。
そして自分の事を思い出した。何故ならここ数年自分のセクシャリティについて悩んでいなかったからだ!
自分の中で決着が付いたのかもしれないし、でも普通の女性かと言うとそれはどうやら違うらしい。
あと生きるだけで手一杯なのでその上性別がどうとかもう言ってられません(笑)と言う。
でもそう、間違い無く自分の一部で有るこの問題を、
ちょっと思い出したり振り返ったまとめたり、放浪息子に沿ってそんな事をしてみようと思った、
と言うのがこのブログのこのカテゴリにおける序章である